その箱は、あけてはいけないよ
「パンドラの箱?なんだそりゃ」
「ジタン、知らぬのか?」
コトン、と俺にもたれかかって眠ってしまったビビを抱き上げて部屋を出ようとした俺に、フライヤが聞いたことのないその言葉を呟いた。聞いたことのない、不思議な響きの言葉。
その言葉の意味を、少し意外そうな、でもどこか楽しそうな顔でフライヤは話し始めた。
神様から贈られた「ありとあらゆる災い」の詰まった箱を持たされた「パンドラ」。
絶対に開けてはいけないその箱を、好奇心に負けてほんの少し蓋を開けてしまう。
その瞬間、世界中に災いは解き放たれた。
人々に降りかかる苦痛と災厄。
取り返しのつかない出来事に絶望するパンドラに、箱の底から僅かな声が語りかける。
…………箱の底に残った、「希望」の光が。
「…で、その話と俺がどうだっての?」
めでたいんだかめでたくないんだかはっきりしないその物語は、だけどほんの少し、ひっかかるものを感じて気持ちが悪い。
開けてはいけない箱。
掛けられていない鍵。
かたく閉じた蓋に、手を。
「…おぬしも、持っていそうな気がしてな。…箱を」
フライヤが呟いた。
呟いたその顔からは、あまり感情は読み取れない。不安なのか、好奇心か、心配なのか。どの感情も見つけることは出来なかった。
フライヤの物言いたげな視線に耐えかねて、腕の中で眠るビビを見つめる。
パンドラの箱には鍵が掛けられてはいなかったけど、俺の中の箱には確かに掛かっている。小さいけれど、頑丈な鍵が。
腕の中にいる、小さな鍵を、一瞬だけ抱きしめた。
俺はこの箱は開けない。開けられない。
開けたら、この鍵は壊れてしまうから。
「俺は……開けない」
抱き上げた腕にほんの少し、力を込める。
何も知らずに眠る、大切な人を起こさないように、ほんの少し。
…この人が俺の中の『箱』の鍵。
「…ジ、タン……」
話し声で目が覚めたのか、ビビがうっすらと目を開けた。
「ああ、ごめん。寝てていいよ、ベッドまで行くから」
「んー……あり、がと」
ふわりと笑って、そのままことん、と眠りに落ちる。
その寝顔は、無防備で。
「こいつ、ベッドに運んでくる」
おやすみ、と言ってビビを抱き上げたまま部屋を出た。
去り際に振り返ったら、フライヤの目には心配そうな色が浮かんでいた。
箱の中には、くらい情熱。
底に『希望』とやらの光が残るはずもなく。
蓋を開けたらきっと、この人を壊してしまうから。
「…開けらんねぇよな」
ビビの寝顔を見ながら、呟いた。